ポケモンをやらなかった30歳女が、ポケモンGOを想う理由
ポケモンGOにはまっている。
私はポケモンの本作はやっていない。
でも、今はポケモンGOを謳歌している。
なぜか。
■兄貴に取られたゲームボーイ 憧れつつも20年間触れることのなかったポケモン
1996年当時任天堂からゲームボーイソフトとして発売されたゲーム「ポケットモンスター」。
説明するまでもないがこのゲームは、
「ポケットモンスター(以下「ポケモン」)」という不思議な生き物が生息する現実(現代)に似た世界において、ポケモンを自らのパートナーとして「ポケモン同士のバトル」を行う「ポケモントレーナー(通称「トレーナー」)」たちの冒険を描くロールプレイングゲーム(RPG)である。
その頃、2歳年上の兄貴が赤を買い(当初赤と緑の2色が発売され、ゲーム内で捕まえられるモンスターの種類が異なっていた)、見事ドはまり。
当時、スーパーファミコンやプレイステーションなど、テレビに映し出すゲームが主流だった。
兄貴がプレイ中、私は横にちょこんと座り、その様子を見て一緒にプレイしている気分に浸っていた。
しかし、ポケットモンスターの場合、捕まえたモンスターをコレクションして、通信で友人と交換していくことが革新的だったため、デバイスはポータブルなゲームボーイだった。
そうなると画面が小さく、兄貴がプレイしていても私はその様子を見ることはできない。
「ピカチュウをゲットした」、「ミュウっていう幻のモンスターがいるらしい」など、会話のなかで聞いていたものの、まったく画面が見られない。
かといって、小学生だった兄貴がハマっているゲームを幼い妹に貸すという配慮をできるわけでもなく。(なんなら当時流行していたガチャガチャのレアアイテムを奪っていくような鬼畜だった)
そして両親が、二つ目のプレイ機器を買ってくれるわけでもない。
私は当時のポケモンの流行の波に完全に乗り遅れてしまった。
しかし、そのときはそれでいいと思っていた。
まさか20年も子どもたちの心をゲットして、遂には株式会社ポケモンを立ち上げるまでの拡散力があるとは想像もしていなかったからだ。
そして私はポケモンを知らないまま、その後に流行った歌「ポケモン言えるかな」の中のひとつも言えることもないまま、20年が過ぎた。
■やっと自分でプレイができるようになったポケモンGO
そして2016年7月22日。ポケモンGOがスマートフォンでダウンロード可能になった。
もう全力でプレイするしかないだろう。
リリース初日にダウンロードして、いつもは20分で着く隣町の駅まで一時間半かけて歩いた。
一番始めに手に入れたのは、ヒトカゲ。初代ポケモン赤の表紙を飾ったモンスターだ。
私の20年前からの憧れのモンスターはこのヒトカゲなんだ。
発売されてから1週間弱。
一日の仕事場となるカフェに向かうために、わざわざ遠回りして歩き続けている。
ゲームに関する基本的なチュートリアルがなく、日本中プレイに夢中になっているために、攻略のサイトなどもまだ数少ない。
LINEの友人とのグループでは、日々、どこにこのモンスターがいただの、今日はこの子を捕まえただの情報のやりとりが続く。
歩きスマホによる事故や不法侵入、公園のゴミの散乱、企業との提携などニュースでも悪い意味、良い意味どちらにおいても取沙汰されている。
家に帰ると父もゲームに対して苦言を呈しているし、母は私が出かけるたびに「今日もいっぱい(モンスターを)つかまえてきてね」と声をかける。
街中ですれ違う、スマホを手にした人たちのほとんどがプレイヤーという異常な状況。
新宿御苑では老若男女出そろって、風光明媚な景色を無視して、画面に目を落としている。
■80~90年代のゲームソフト発売時と、同じ高揚感を現代でも感じられた奇跡
確かにポケモンGOから生まれるものは良いものばかりではない。
それを危惧するメディアの立場も理解できる。
しかし世界を巻き込んで社会現象を起こすほどの影響力をもつモノだから、仕方ないとさえ思ってしまう。
(ただし、事件を引き起こした本人を擁護する気は一切ないし、マナーを身に着けないでプレイする人に対しては怒りすら覚える)
しかし、ゲームへのこういった物言いに、違和感を感じてしまう。
「一週間で飽きるだろう」
「もうアメリカでは下火になっている」
ネットでは、プレイヤーの熱を鎮火させるような記事も出ている。
それらを見ると、なんて下卑た話をするんだろうと思ってしまうのだ。
ポケモンGOを単にゲームとして捉えてみると、これまで私たちを魅了してきたゲームと同じ道を辿ってきているのではないかと思う。
例えばエニックスから出た、ドラゴンクエストIII。
発売当初、販売店に数キロの長蛇の列をつくらせ、ゲーム誌やテレビCMでは発売前からゲームの情報を小出しにして、ゲームファンの期待を膨らませてくれた。
2009年にリリースされたファイナルファンタジーXIIIの発売予告CMでも、忘れられないフレーズがある。
「3年間、この日を待っていた」
「私もそうだ」と、このCMに共感した人も多いのではないだろうか。
この高揚感を現代で、スマホのゲームで感じられたのは奇跡に近いのではないだろうか。
■ゲームは元々数週間の命 それをどう楽しむかが重要だ
90年代では一万円という価格の、ゲームソフトを手に入れたときの高揚感は計り知れない。
しかし今回は、無料で手に入れられ、すぐ消去できるような短期的な消費物に、同じような感覚を得られるのだ。
しかし、ゲームへの期待は、ゲームのスタートボタンを押したときに、はじけてしまう。
ゲームは消費していくものなので、期待値からの下降線ができるのは当たり前の話である。
そして長編のRPGでも正味2~3週間の命だ。
ゲームにのめり込む人ほど、驚くほどのスピードでクリアしたりもする。
でも、それを批判する人は誰一人としていなかった。それでよかったのだ。
人々はそのゲームの世界を自由に駆け巡り、満足して現実世界に帰ってくる。
時間の短い、長いは関係なく、その世界にどれだけ貢献できたかが重要なのだ。
その経験を得ているからこそ、大人になった今でもお酒を飲み交わしながらゲームの名シーンについて語り合うことができる。その余韻を楽しむことができる。
そのため、注意喚起は必要とはいえ、今夢中になっている人々に水を差さないでほしいと思う。
大切にくまのぬいぐるみを抱えている少女に、大人は「来年になったら、くまは押し入れのこやしになるね」とは言わないだろう。同じことである。
■ポケモンGOは、世界が一緒に見ている大きな花火
とはいえ、生まれ出たものへの、賛否両論は必ず付きまとう。
それは、取り扱いようによっては、人やモノを成長させる鍵にもなったりする。
ただその中でも質が良いものと悪いものがある。それを見極めなければいけない。
だから私は私の立場で、ポケモンGOを批判する人に、ちょっとだけ言いたい。
それ自体は、そんなに眉をひそめるような悪いモノでもないよ、と。
昔、流行した携帯ゲーム・たまごっちも、テトリスも世界を巻き込んで、楽しませてくれた。 ゲームという遊びのジャンルでここまで拡大したものは、ここ最近あっただろうか。
子どもも大人も、皆がワクワクするゲームが生まれた。
そして周りの景色を一変するくらいに、見事に拡散した。
ポケモンGOに興味がない人がいたら、これを大きな花火だと思ってほしい。
世界のど真ん中で打ちあがった、特大の花火。
皆がその瞬間を目にする、その時間を共有することができる。
でもその花火を打ち上げるために、何人かが犠牲になったかもしれない、
花火を写真に収めるために、人が他人に迷惑をかけるかもしれない。
打ち上げ音に「うるさい」と怒鳴る人もいて、でも空を見上げて涙を流す人もいるだろう。
特大の花火なんて、ちょっと大げさな表現かもしれない。
けれど町中で見たこの景色を、1ヶ月後にはもう見られないかもしれないのだ。
私はポケモンGOをプレイすることで、これまでの20年間を取り返し、今後20年もその余韻を楽しむ予定だ。
あなたはどこからこの花火に触れるのだろうか。
一緒に花火を見るのだろうか、おうちでテレビを通じて知るのだろうか、花火を見ている人たちに眉をひそめるのだろうか。